自分の人生の主役は自分なんだよ。
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30
日本人と戦争責任
 Xくん、森達也と齋藤貴男の共著である「日本人と戦争責任」の本をスペインに送ってくれてありがとう。久しぶりに感銘を受けた本なので、この本を通して考えてみたことを記してみたいとおもいます。

 渡辺清、おれ知らなかったんだ、こんな市井の巨人がいたことを。自らの戦争体験を突き詰めて自らに問い昇華して、この国のいい加減さ、だらしのなさを一生をかけて行動と文章で告発した。孤高のひととなろうとも、けっして自分の弱さから逃げようとしない。本当は自分は弱い人間である、ということをはっきりわかっていた人なんだろうな。だからこそはっきりと物をいう。

 昭和天皇が敵国であったマッカーサー元帥といっしょに撮ってある写真を見たときに渡辺清は激怒する。 戦後のだらしない無責任体制の始まりは、このふがいない天皇の姿に根本的にあると渡辺は考える。300万同胞が天皇の赤子となり戦争で死んでいった。その事実への責任が大元帥でもある天皇にはある。自決するなり退位するのがけじめというものだろう。それが敵国の軍門に下ったのだ。渡辺の天皇崇拝が憎悪に変わった瞬間だ。

 戦後の歴史を見てみても国のトップ周辺は悪さが発覚すると罪を認めず、逃げ隠れしてほとぼりがさめたころになると又復活してくる。また国民がこれを赦す。ここが問題なんだ。おれは赦していないよ、というやつがいるかもしれない。でもな、腹の中でブツブツ文句をいっているだけでは、社会にたいしてなんも影響力がないんだよ。公に行動し発言することこそ大切なんだ。
そこが日本人の大部分のひとにはできない。だから社会がおかしくなる。そんな社会世相を見て育つ子供たちがかわいそうだ。ろくな大人になるわけがない。

 日本には民主主義制度はまだ必要ないのかもしれないとおもうようになってきた今日この頃だ。個人主義が国民の大多数になったとしても民主主義維持には時間がかかる。日本人の得意な集団主義にもいいところがあるだろう。社会の矛盾に鈍感な人間ならばシンガポールやフランコ時代の強権政治はいいんじゃないか。そこそこメシが食えるしなんてったって安全だ。山口組の親分の町内にはコソ泥がいないのと似ている。もっと研究してもいい社会体制かもしれない。

 喉もと過ぎれば熱さ忘れる、多くの日本人にとってはピッタリのとてもいいことばだ。戦争で死んでいった人々の怨念をかなぐり捨てて、はやいところ為政者や財界が悦ぶ戦争のできる国に突っ走ることだ。そしてまた悲劇をくりかえす。国のトップ連中は逃げ切れるが国民は痛い目を見る。しかし月日が権力者への怒りを風化させて・・・。うん、いまのような感覚の日本人には民主主義はいらない。

喜多武司 拝



 
[PR]
by kitatakeshi-blog | 2007-08-18 04:26 | 日本ななめ切り