自分の人生の主役は自分なんだよ。
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われわれと「彼ら」
 森巣博という作家がいる。オーストラリア在住で本業は博打打ちだ。カシノで飯を食っているめずらしい人間だ。おれもカシノが大好きで長い間、カシノ場にいりびたっていたが、一文無しに近い状態になったので最近は通っていない。おれよりも10歳ほど年上の方だから、もう60歳近いことになるが、サイドビジネスの物書きではあまり儲からないといっていたので、せっせとオーストラリアのカシノ場を周っていることだろう。

 さて森巣さんは境界線というものをとても気にしていて、「われわれと彼ら」という概念を機軸に作家活動をしている。外国にいると自分は外国人であると認識させられることは多い。たとえばそこの国の人々ではノーマルスピードで会話をするのに、外国人相手だとゆっくりと話をしてくれたりする。自分としてはありがたいと思う反面、外国人だからという理由で境界線をひかれたような屈辱感も感じたりする。

 自分の生まれ育った環境から感じえたもの、そしてものごとや人物に対する好き嫌いというものがどうしても感情として芽生えるのが人間の性というものだろう。この感情からはほとんどの人間は抜け出すことができない。できないから自分とは異質のものについては思考停止状態になる。たとえばオウムの麻原祥晃についてどれだけの人間が思いを馳せて彼が引き起こした事件を考えているか。おそらく大多数は考えていまい。考えないどころか、マスコミが垂れ流す情報を鵜呑みにして、それが真実であるかのように錯覚して自分の頭の中にインプットしてしまう。

 「われわれと彼ら」という概念は差別の根本原因なんだ。ほとんどの人間がこの概念から逃れられない以上、最低限の痛みで社会生活を営むということが、社会安寧の必要条件であろう。それは異物を認める作業だ。たとえ自分とは考えが合わなくても、またどうしてそう考えるのか理解できなくても、その意見を言う権利は認めるということだ。

 所詮人間はひとり一人違うんだ。違うということを前提にしなければ円滑な社会生活は営めない。しかし現代日本社会をみていると、どうしても異物を排除しようという空気が強いし、年々強まっている。みんなが同じ方向で異物を排除し始めるとき、終には「われわれ」の中にいたとおもっていたことが錯覚でいつの間にか「彼ら」の中にいたなんてこともありえるわけだ。

2005年11月14日 喜多武司
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by kitatakeshi-blog | 2005-11-15 01:46 | 日本ななめ切り